この作品は、一個の女の心に潜む、矛盾し、そして共存する二つの顔を、驚くほど生々しく描き出した、まさに現代の鬼畜絵巻である。タイトルにある通り、この作品の全ては、ゲログソマンズリどすけべ自撮りという、自らの欲望を、自らの手で記録し、そして晒すという、極めて自己完結した、そして危険な行為に集約されている。これは、他者からの強制ではなく、自らの意思で、深淵へと足を踏み入れていく、一個の女の、恐ろしいまでの変貌の記録なのだ。
被写体である桜由さんという存在が、この作品のリアリズムを決定づけている。恥ずかしい…と言いつつも、痴態を見られて興奮するという、典型的なMっ気の持ち主。普段はフツーにお勤めなのに、こんな事して良いのでしょうか?という、社会人としての常識と、自分の内なる異常な欲望との間で揺れ動く、その葛藤そのものが、この作品の最大の見せ場だ。彼女が、自らの行いの罪深さを理解しながらも、それを止めることができない、むしろその罪悪感すらも、一種の快感として享受してしまう様子が、見る者に、他では得られない興奮と共犯者意識を抱かせる。
この作品の核心は、自撮りという形式にある。これは、彼女が、自らの痴態を、最も客観的であり、最も主観的な視点から捉えようとする試みだ。カメラの前で、自らの体を弄び、自らの表情を撮影する。この行為が、彼女の内なる欲望を、より一層顕在化させていく。彼女は、もはや撮影される被写体ではない。自らの性を記録し、創造する、能動的な存在へと変貌している。この自撮りという形式が、この作品に、他の類作品にはない、強烈な自己肯定と自己破壊の二面性を与えている。
そして、クライマックスである撮影最終日の連続嘔吐。ヒリたて大便を口に含むという、常軌を逸した行為に挑んだ彼女が、そのあまりの衝撃に、思わず嘔吐してしまう。この瞬間が、この作品の真骨頂だ。これは、計算されたパフォーマンスではない。自らの体の限界を超えた結果としての、生理的な反応。この、意図せざる失敗とも言える瞬間こそが、この作品を、単なるフェチビデオから、一つの衝撃的なドキュメンタリーへと昇華させる。彼女の体が、自らの意志ではコントロールできない、最も生々しい反応を示した瞬間を、私たちは目の当たりにするのだ。
ゲログソ汁を大事な部分に塗り付けて…こんな事して大丈夫でしょうか?この結びの言葉が、この作品の哲学を、完璧に表現している。彼女は、嘔吐と排泄によって生まれた、最も汚れた液体を、自らの最も大切な部分に塗り付ける。これは、汚れることによって、自分の価値を再確認しようとする、一種の自己陶酔の儀式だ。そして、こんな事して大丈夫でしょうか?という問いかけは、もう誰にも答えられない。彼女は、もはや社会の常識から解放され、自らだけの、汚れた世界で、満たされているのだ。この作品は、一個の女が、自らの欲望のままに、自らを破壊し、そして再生していく様を、見事に捉えた、まさに鬼畜の叙事詩である。


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